らーめんの歴史
第一に、中国からの移住者の営む中華料理屋や戦後の大陸からの引揚者を中心に始められた日本風の中華料理屋におけるメニューである。ここではもやしそばやタンメン、ワンタンメン、広東メンなどラーメンの調理法を基準としてメニューが区別されている。 味噌や塩ラーメンもメニューにある店舗も多い。この他、チャーハン、野菜炒め、麻婆豆腐、餃子などラーメン類以外のメニューも供されており、 一般的にラーメンのバリエーションが豊富である。第二に、屋台における販売である。
近年は減少しつつあるが、深夜時間帯を中心に「流し」といわれる屋台で販売される。屋台は、古くは江戸時代からの夜鳴き蕎麦屋の風習にのっとり、 リヤカーの後ろに調理器具を積み、市中を回りつつ売ったものであった。チャルメラを鳴らして歩いたことから、屋台の俗称もまた「チャルメラ」という。 近年は軽自動車や商用車に調理器具を積み、椅子を並べ、主に繁華街などで固定販売することが行われている。
屋台で評判を得た店がその後に固定店舗を開設し、ラーメン専門店に転じた例も少なくない。専門店の店舗形態としてはカウンターのみ、 あるいはテーブルとカウンターからなるものが多い。岐阜名産高山ラーメンを安い価格で!高山ラーメン通販.jpなら美味しいラーメン間違いなし!専門店では味噌や醤油、豚骨などスープの味によって、メニューが区別されていることが多い。 特定のスープの味に特化した専門店も多い。また、後述するご当地ラーメンのように、 地域全体で独特なスープや味付け・食材が主流となっているという地域も多い。
これらラーメン専門店のラーメンは麺とスープの製法に各店独自の工夫を凝らすことで様々な個性が生じ、独自の進化発達を遂げた。 特にスープは多くの場合、レシピについて門外不出の「秘伝」とされ、暖簾分けという形での伝授や、 法人化した店舗ではチェーン展開による指導などを通じて広まっていった。
他方、チェーン展開やフランチャイズ展開を行っているラーメン店の場合、 スープなどは企業秘密のまま本社の工場で生産して、末端店舗は本部から卸されたスープを本部に決められたレシピ通りに使用するだけ、 という形が取られる事も多い。
日本で最初に中華麺を食べたのは徳川光圀(水戸黄門)であるとする説がある。
1659年(万治2年)に明から亡命した儒学者の朱舜水が水戸藩に招かれた際に、所持品リストに中華麺を作る際に使うものが含まれるから、 中国の汁麺を献上したとの記録はないものの、実際に作ったに違いないという。 1697年(元禄10年)には、光圀の隠居所である西山荘を訪れた僧や家臣らに中華麺がふるまわれたとの記録もある。 この説に基づき復元したラーメンは新横浜ラーメン博物館にある。
日本への伝搬としては、明治時代を迎えると神戸や横浜などの港町に中華街が誕生し、そこで提供された南京そばに始まるとされる。 1884年(明治17年)に函館新聞(当時)に函館の船場町にある中華料理店養和軒が南京そばを15銭で提供を始める広告を出し、 大正の頃まで提供したとされているが、証拠が乏しく当時の関係者も既に亡くなっているため、 養和軒の南京そばが今のラーメンと同種の食べ物であると断言できていない状況である。
1910年(明治43年)には、横浜税関を退職した尾崎貫一が南京町(現・横浜中華街)から中国人コックをスカウトして、 東京の浅草にラーメンをメインにした庶民的な中華料理店「来々軒」を開店(当時の来々軒を写した写真には「廣東支那蕎麦 來々軒」 「支那御料理 シナソバ、ワンタン、シウマイ」という看板が見える)、味は醤油スープで、1杯6銭(2007年現在で約300円相当) という値段も手頃で連日行列ができる人気は1976年(昭和51年)に暖簾を下ろすまで続いたという。
開店当時は手延べ式の麺で、昭和に手打ちとなる。この「来々軒」の流れを現在に受け継いでいる店は同店で最後に修行した 宮葉進が1966年(昭和41年)に千葉市稲毛区に開店した「進来軒」だけとなっている。1914年(大正3年)には東京茅場町の 「中国料理 大勝軒」が開店、東京に現存する最古のラーメン店として「シルシルミシル」のお初店調査で東京のラーメン店の お初に番組認定されている。札幌では1922年(大正11年)、現・北海道大学正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治・タツ夫婦が 「竹家食堂」を開店。そこで働く中国山東省出身の料理人の王文彩が作る本格的な中華料理が評判となって店は繁盛し、 常連客であった北大医学部教授(後の北大総長)の今裕(こんゆたか)の提案で店名も「支那料理 竹家」に改名。
麺作りは初めは手で引っ張り伸ばす手打ち製法だったが、客が増えたため後に製麺機になった。 当初、竹家のメニューの中でラーメンは中国人留学生には人気があったが、店のメイン料理ではなかった。
そこで日本人の口にも合うようにと大久タツが店の料理人の李宏業、李絵堂の2人に相談し、2人はそれまでの油の濃かったラーメンから 麺・スープ・具を改良、試行錯誤の末、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシュー、メンマ(シナチク)、ネギをトッピングした 現在のラーメンの原形を作り出した(ただ、当時の竹家のラーメンは現在の札幌ラーメンとは異なる)。
当時、先述の浅草来々軒でもチャーシュー、メンマ、ネギを入れていたという醤油ラーメンがあり、 横浜南京街でも同様の具を入れたラーメンができていたといい、各地で現在一般的になったラーメンの基本型ができていった。 今日のラーメンの普及には大きく2つの流れが存在する。